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史跡番号8 丹波の渡し(たんばのわたし)

  • 丹波の渡し
  • 丹波の渡し

江戸時代後期、幕末のころから昭和の初期まで、この地と対岸のとの間に、渡し船があり、「丹波の渡し」と呼ばれた。木太の浜田氏の先祖が丹波の国出身であったことからその名が起こったと伝えられる。この渡し船は、人だけでなく荷車や牛馬も乗せる大型の箱のような船で船客定員は30人ぐらいであった。
大正時代になって、沖松島の柴田氏も渡しをはじめ、2艘で渡していた。当時は、屋島方面の行き帰りに多くの利用者があった。明治時代に、大人が五厘、小人二厘、人力車と荷車は一銭五厘、猫車(手押しの一輪者)と、牛馬は一銭だった。大正時代には、二倍になっていた。

平成6年2月

「この城(高松城)は平城であるが三方は海にて南一方地続きである。ずいぶん堅固な城である。ここより屋島寺は東方にあり干潮の時は渚を行って一里半(6キロ)である。満潮時は南の野へ廻るため三里と遠い。・・・寺を起って東の浜に出て、辰巳の刻(午前9時)には干潮だったので渚をまっすぐ行って屋島寺の麓に至った。」

これは江戸時代初期に四国遍路を行った澄禅(ちょうぜん)の旅記録「四国遍路日記」(1653年)の一部分です。詰田川や春日川は干潮時には渡れることもあったと記されていますが、満潮時は無理でした。
荒井とみ三「高松今昔記」(昭和54年)には、かつての「丹波の渡し」の思い出として、

「男は干潮時は裾を折って向岸に渡ることもできたらしいが潮が満つと渡れず、渡し船ができるまでは、東方へ行くためには松島町の千代橋や南方の御坊川橋まで南下して遠回りしなくてはいけなかったようです。」

と書いています。