松島コミュニティ|であい ふれあい ささえあい

史跡番号2 向良(こうら)神社・松島の街通り

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向良神社

祭神 向山周慶(さきやま しゅうけい)・関良介(せき りょうすけ)

祭日 7月14日・15日

神社の由来

今から200年ばかり昔、向山周慶と関良介の二人は30年にあまる年月と幾多の苦労の結果立派な白砂糖をつくった。そのため高松藩はもちろん讃岐の人々は大変恩恵をうけた。 後両名の功労をたたえて、向山周慶の「向」と関良介の「良」を合わせて、「砂糖の神様、向良神」として玉藻城内にお祀りした。明治18年この地にうつしたが、昭和20年7月、戦災で焼失したので氏子たちが力を合わせて再建をはかり32年に本殿、35年に拝殿を完成して祀る。

松島の街通り

松島の街通りは、江戸時代から讃岐五街道の一つで、玉藻城から志度方面に通ずる浜街道または東下道(ひがししもみち)とよばれた。今橋から千代橋までの七丁、御坊川の千代橋を渡って三丁併せて松島十丁と呼んだ。昭和前期には、80余の業態で200軒近い店や旅籠(はたご)が並び、たいへん賑わった町であった。 農耕用器具、種物や苗類、薬品類、日常生活の食料品、荒物、雑貨、下駄から靴まで何でも揃えることができた松島の町並みであった。技術職人用のこて・鋸(のこ)は徳島・大阪方面にも得意先を持っていた。特に松島の唐箕(とうみ)は県内はもとり、遠く北海道から中国・四国方面にも販路が広がっていた。
昭和20年の高松空襲により、西半分は焼失した。東半分は戦災をまぬがれたが、商店街の復活までには数年を要した。

平成7年1月

讃岐産砂糖は最高級品として大坂市場で盛んに取引きされ、最盛期には全体の6割を占めて藩の財政危機を救うことになったそうです。 向良神社の玉垣に刻まれた名前も見てください。 機会があれば、東かがわ市白鳥の向良神社へもお詣りされたらいかがでしょうか。
松島本丁筋(ほんちょうすじ)には現在でも、戦前からの「石原酒店」「花崎種苗店」「那須米穀店」「入江酒店」などが営業を続け、「湯浅たばこ店」「天狗堂種苗園芸」「喜多猿八商店」「上岡鮮魚店」「奥田呉服店」「朝日温泉」「田岡鉄工所」などは店舗の建物が残っています。