史跡番号1 今橋と杣場川
今橋は、城下町と松島本丁筋を結ぶ往来第一の橋で仙場川に架かっている。明治44年(1911)11月、今橋駅を起点に電車が開通して、屋島・牟礼・志度方面と市内中心部との交流が増え、おおいに賑わったので駅とともに、地名としても広く知られるようになった。
今橋から上流は玉川、下流は仙場川(杣場川とも書く)と呼ばれた清流であったと伝えられる。今橋の南方約400メートルの所に高橋が架かっていた。この間に、玉川水門をつくり、松島町南浦一帯の水田約20ヘクタールの灌漑用水としていた。下流域は、長い間貯木場となっていた。
大正時代初期に、市南部にできた製紙工場の廃水や、その後の急速な都市化の進展により、次第に汚泥の川となっていた。昭和40年代にまず玉川を暗渠(あんきょ)にして歩道にされた。その後昭和51年に新橋までが「緑道公園」となり、市民の憩いの場となっている。
平成7年1月
今橋は城下から杣場川(せんばがわ)を渡って東へ松島、木太へと向かう阿波街道の拠点であり、そこに志度行き電車(東讃電気軌道)の始発駅ができたのが明治44年でした。
大正2年には今橋駅が出晴(ではれ)駅(現瓦町駅付近)と結ばれました。現在のコトデン(高松琴平電気鉄道)志度線の会社でした。
さて杣場川の、杣(そま)とは森林・材木のことで、杣場は貯木場を示します。
そのため明治大正期には杣場川沿いに多くの木材店がありました。
その名残が今橋駅西の道、約150m北にある明治創業の宮地銘木店、築地町側の明治創業の林木工、昭和17年創業の香川合板工場(現南海プライウッド)などです。その他にも材木倉庫が残っています。
材木に関係する業種として讃州製紙(昭和26年創業もと丸高製紙)もありますが、平成28年3月に製紙事業から撤退しました。
またかつて、消防屯所や新橋付近に冬場、カキ船が停泊して開業していたといわれます。
説明板の地図に従って緑道を歩かれてはいかがでしょうか。