コラム歴史探訪 第1回 千代橋歌碑の謎
松島地区歴史探訪同好会 会長 万野年紀(文・写真)
高松市松島町の千代橋歌碑について
千代橋西の松東自治会消防屯所横に花崗岩製の歌碑がある。
高さ約2メートル。江戸時代からあった木製の太鼓橋が、明治12年(1879年)に石の橋に架け替えられたことを記念して建てられた歌碑ということなので、今から145年前である。
初めは、千代橋中央部の南側に、北向きに立っていたが、昭和48年(1973年)、鉄筋コンクリート製となった時、現在の場所に移っている。

昭和30年頃の千代橋の歌碑
昭和30年頃の撮影と思われる写真がある。
石清尾八幡宮の秋の大祭時に、地元で出した「ちょうさ」(太鼓台)である。御坊川の下流(北)から上流方向(南)に斜めに撮っていて、千代橋の東半分が写る。橋の中央部分に、下流(北)に向かって立っている歌碑がみえる。

千代橋の歌碑に刻まれた内容
千代橋歌碑の内容を紹介する。
歌碑に刻まれている5名の歌人による歌と、その口語訳は以下の通り。
世をわたす 人の恵みを 行きかひに かけて忘るな 千代の磐橋
友安盛敏
世の人々を救おうと、長く壊れないことを願ってこの千代橋を造った人の恩恵を、この橋を行き交う度に決して忘れてはいけない
【作者の紹介】
友安盛敏(ともやす もりとし 1831頃~1886)
江戸から明治時代にかけての讃岐の国学和歌・漢学者。明治16年皇典講究所分所長。父の友安三冬(みふゆ)は江戸時代後期の国学者で高松藩主松平頼恕(よりひろ)に召されて先生に。友安家は香南町由佐の冠纓(かんえい)神社祠官であった。
とこしへに 国のさかえと 動きなき 岩の千代橋 かけるみちしも
入谷澄士
永遠に続く国の繁栄のように、壊れない石造りの千代橋を架けてこの道を造ったことだ
【作者の紹介】
入谷澄士(いりたに すみお 1804頃~1882)
元高松藩士。国学者友安三冬に学ぶ。和歌・俳句・絵画に優れる。孫の入谷暘(よう)も和歌・俳句・絵画に優れ、多くの墓碑・碑文の書を残している。松島神社境内の遷宮記念碑は大正5年の入谷暘による。
松島の まつの八千代を 鳴わたる 千どりや橋に 名つけそめけん
黒木茂矩
この松島の地で昔から八千代も続く長い年月ずっと緑で変わらない松の林を、ちいちいと鳴きながら飛び渡っていく千鳥。その千鳥の『千』と、永遠を意味する縁起の良い 『八千代』の千代の字をとって、この橋を千代橋と名づけたのだろうか(この橋が永遠に架かり続けることを祈って)
【作者の紹介】
黒木茂矩(くろき しげのり 1832~1905)
代々吉野村大宮神社の家。漢文・和歌に優れる。勤皇の志高し。明治2年、高松藩の藩校講道館の教官に。上京して教部省の先生に。琴平宮の禰宜(ねぎ)。高松で私塾、盈科義塾を開く。子の黒木欽堂(きんどう 黒木安雄)は、書道家・教育者で香川師範学校教官、のち県立工芸学校校長。乃木希典に詩・書を教えている。
橋の名の 千代をしかけて 石ふみの 宇禁(うこん)の花も 匂ひわたらん
雁ノ舎棹好
千代橋という名の通り、この橋が長く在り続けることを思ってこの石碑は建てられた。石碑の周りに咲く鬱金(うこん)の花の香りも永く一面に香りわたるだろう
【作者の紹介】
雁ノ舎棹好(かりのやど さおよし 1822頃~1905)
本名、多田棹好。国学者の友安三冬に学び万葉集に詳しい。短歌・狂歌に優れる。
水に火に 崩れず焼けぬ 末の世を 思ひながして 誰かたくみし
中村尚孝
水害や火災などによって崩れたり焼け落ちたりして、後の世の人々が困らないように、いろいろと思いを巡らせて、誰かがこの橋を造ったのだなあ
【作者の紹介】
中村尚孝(なかむら ひさたか 1809頃~1879)
中村尚輔(ひさすけ)。元高松藩士。槍術は地位流、兵法は山鹿流。国学を友安三冬に学び、語学と和歌に優れる。明治2年高松藩皇学寮教授。
干時 明治十有二稔(12年)一月建立 南海岡銕山 謹書
(干時は「ときに」と読み、「今現在」の意味)
【書家の紹介】
歌の書は岡銕山(おか てっさん)。
本名は岡坂政五郎。牟礼村の岡坂醤油屋の主人。蝸牛(かたつむり)と号す。年48歳。写生派、7・8年前より有岡翠香先生に師事して研鑽する。書は巧みで作品も多い。俳句・書にも優れる。囲碁は有段者。社会事業に尽力し村民から尊敬された。(岡坂政五郎については『増補改訂讃岐人名辞書』昭和11年による)
5名の歌人について
5名の歌人は地元松島の住人ではなく、江戸時代末期から明治にかけての讃岐を代表する学者・歌人である。
このことは、志度街道(阿波街道)である松島本丁筋が重要な街道であったことを示すが、それだけではないと思う。
実は明治維新以降、香川県は消えたり現れたりしていて、1876~1888年は愛媛県の一部であった。
橋の架けられた明治12年(1879)はその時代になる。讃岐の文化人も香川県の独立を求め、その発展や繁栄を熱く願っていたことが、これらの歌に込められているように思える。
なお、歌碑の最下部には石碑建設関係者の名前が刻まれている。
「発起人 竹田弥七 松山儀平 村尾為三郎 難波清平 島尾茂平 宗村伊平 漆原清七 熊谷茂吉
(※以上の人名について「当所」とある、つまり地元ということ)
世話人 林喜助 渡辺秀三郎 児島元三郎
(※以上の3名について「当所」とある)
古高松村 間島八郎 新田村 大美嘉平
石工 山本佐太郎
千代橋の歌碑の謎~碑額の氏名印は誰か?
次に歌碑の上部の文字を見てみたい。
歌碑の上部には、右から大きく3文字「千代橋」と、達筆で書かれてある(彫られてある)。

歌碑の中には記されていないが、その文字「千代橋」を書いた人物名を探ろうと思う。
その人物名を探すヒントとなるのが、字のそばに彫られてある印である。
日本画や書道の作品には、作品の完成を示す儀式として、落款印(らっかんいん)が押されてあることがよくある。
書画の左側には氏名印。例えば、織田信長の場合は、右側に縦に「織田」左側に縦に「信長」の4字の印がある。名だけで「信長之印」とすることもある。
そのすぐ下には雅号印。作者が本名以外につける名前で、ペンネームのようなものを「雅号」という。
千代橋歌碑碑額の中の氏名印と雅号印を読み取ることができれば、題字を書いた人がわかる。

印の文字は古代中国文字のひとつ、篆書体(てんしょたい)である。なんとか想像しながら読むと、氏名印は「高●之印」である。●はニンベンの字であるがなかなか確定できない。
明治12年の碑であるし、石に彫ったものなので正確に文字を読み取ることができないのだ。
石碑の題字を依頼される人物は著名人であることが多い。
そこで当時(明治12年頃)の高松や讃岐の著名人を探してみることにした。
手始めに『香川県人物・人名事典』(四国新聞社 昭和60年)を読んでいると、「愛媛県権令(=県知事)岩村高俊(在任明治8年~明治13年)」の名に巡り合った。
もしかしたら、碑額の氏名印は『高俊之印』かもしれない。
岩村高俊
岩村高俊は高知の宿毛(すくも)生まれの土佐藩士で、官僚であり、華族である。
司馬遼太郎の小説『峠』にも登場する人物である。
知事として愛媛県にいた明治9年に、香川県は愛媛県に吸収された。
明治12年の千代橋歌碑建立時、香川県は愛媛県の一部であり、岩村高俊が知事の立場であったことになる。
岩村高俊は宿毛にとっては著名人であろう。
そこで、高知県宿毛にある歴史館に聞いてみた。
すると、なんと宿毛歴史館に残る岩村高俊の書の「氏名印」と「雅号印」の写真が千代橋歌碑の印と同じであることが確認できた。

つまり、千代橋歌碑上部の「千代橋」の文字は、香川県が愛媛県の一部であった時代に、愛媛県知事によって書かれた文字だったのだ。
歌碑の歌人たちの想い(香川の繁栄や独立)が愛媛県知事を動かしたのかもしれない。
なお、「雅号印」と思われる印の文字は未だに読めていない。
岩村高俊の雅号は「戻橋堂」(もどりばしどう)とのことだがどうしてもそのようには読めない。
千代橋の歌碑を巡る謎は、まだ続いている。