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史跡番号5 千代橋

  • 千代橋
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松島町の東部、御坊川に架かるこの橋が千代橋である。江戸時代から「浜海道」また「東下道」と呼ばれた往還道であった。昭和前期に、観光道路(旧国道11号)ができるまでは、高松から屋島を経て志度・徳島方面へ行く出口であり、また高松への入口にあたる主要街路であった。明治12年(1879)に木製の太鼓橋から石の橋に、昭和48年(1973)には鉄筋コンクリートの現在の橋となった。
橋の西たもとには、旧高松藩の船番所か、あるいは川口番所といわれる建物がある。鬼瓦には松平家の紋章「三葉葵」が使われていて、市内の民家では一カ所だけといわれている由緒ある建物である。この橋から東へ少し行ったあたりは、餅屋街とも呼ばれ、名物「てすけ餅」を売る店があった。明治時代から百年近くも続いたが、昭和中期には、洋菓子類の隆盛に押されて廃業したと伝えられる。

平成6年2月

千代橋の架かる御坊川とは、香川町川東下付近に源を発し北流したのちに、木太町で詰田川と合流する河川です。かつての香東川の東の分流ともいわれています。灌漑用水や製紙工場の工業用水として利用されましたが、高度経済成長期には河川の汚染が進み魚も住めないどぶ川となりました。現在は徐々にではありますがきれいになってきています。「御坊(ごぼう)」とは寺のことで、勝法寺(後の高松興正寺別院)が16世紀に楠川のほとりに創建されそのことで楠川を御坊川と呼ぶようになったといわれます。
江戸時代の千代橋は木造の太鼓橋でした。 橋の西のたもとには、高松藩の船番所があり、川口番所といわれる建物が現在も残っています。屋根瓦の三つ葉葵を探してください。松島本丁筋のロイヤルハイツ松島の西を境として、本丁筋東半分は戦災被害を受けていません。そのために江戸時代末期からの建物が残っているのです。その向かいの入江酒店はもと船問屋でした。また橋の東たもとに残る高島最中種製造所の建物は昭和2年築です。