史跡番号12 八丁土手(はっちょうどて)
「松島より」二丁ばかり北に八丁土手というあり
並松つづきて絶景いわん方なし
初夏より別して北風はすずしく行きてあそぶべし
伝えいわく この地は奥州松島の景ににたるによりて名づけたりとなむ
(「讃岐国名勝図絵」より)
寛文7年(1667)松島周辺の干拓が盛んに行われた。その頃、ここから東に向かって沖松島まで長さ八丁の土堤が築かれた。高松城下からここを通り、沖松島を経て潟元に出る近道として重宝がられたようである。土堤の南側には用水路があり、開拓された田畑には春秋野の花が咲いた。また北側の海浜には塩田が造られた。昭和34年その塩田が廃止されると急激に宅地化が進み、土堤の面影はなくなってしまった。
平成7年1月
1丁は約109mなので8丁は約870mとなり、杣場川公園東の所から香川県立体育館すぐ南の道を東に進み、福岡町のふくしま屋酒店あたりまでになります。松平頼重公による1667年の干拓のために造られた土手がこの道になっています。土手の北側は瀬戸内海、南は用水路(八丁堀)と湿田、土手の高さは2~3mで、ここには松が植えられ白砂青松の浜が続いたと考えられます。
高松城下からここを通り、詰田川を渡って潟元方面に向かう近道でもありました。高松東部ポンプ場の南側の家の軒が低いことや高松競輪場の子供広場が低いことなど、土手が高く盛られていたことが少し面影として残っています。
八丁土手の北には、1866年に武藤六兵衛らによる「武藤新開」に造られた新しい塩田が造られます。それが「新浜塩田」です。現在の高松競輪場北側の海のそばからここへ移った「塩竈(塩釜)神社」が道沿いにあります。境内西奥の「蛤(はまぐり)地蔵」は、塩田開発の埋立てで犠牲になった魚介類を供養するために、明治3年に建てられたものです。